泉州地域の縄文時代

泉州地域を中心としての縄文時代後期から晩期

 「向出遺跡」・「向山遺跡」                 

 阪南市自然田(じねんだ)に所在する。第二阪和国道延伸に伴う工事に先立ち実施する。「向出遺跡」   河岸段丘の縁辺に当る約5.000uほどの範囲からは、縄文後期末(宮滝式)から晩期前半(滋賀里式)の墓地と弥生後期から古墳初期の集落跡を検出した。縄文時代の遺構は約300基の土坑を主体とする。これらは2基の長方形の土坑を中央に置き、円形の土坑やピットを直径7〜18mの円周上に十数基を配置する「環状土坑群」を構成しており、重なり合いながら十数か所程度造営されていた。又、大型石棒が地上に立てられたままの状態や土坑に埋納された状態で検出されており、縄文墓地における祭祀のあり方を示すものである。出土した土器は宮滝式を中心とする後期前半から晩期のもので、大洞系のものや、瘤付き土器など東日本の影響下のものも見られる。弥生後期から古墳初頭の集落跡からは、円形竪穴住居跡4棟と方形竪穴住居跡6棟が検出されており、円形から方形への変遷を追うことができる。

   「向山遺跡」

 調査面積は約4.000uを4区に分けて調査を行なった。弥生時代では円形と方形の竪穴住居跡で構成される集落が検出された。数度の立替が確認でき、中期〜後期にかけて存続していたことが判明した。古墳時代では方形の竪穴住居跡と小石室1基を含む墓域と考えられる土坑群も検出された。 又平安時代の掘立柱建物の他、鎌倉〜室町時代の掘立柱建物群や土坑・溝が検出された。出土した瓦から14世紀代の寺院の可能性も推定できる。井関川右岸の丘陵全体が古くから開発されていた事が窺われる。

向出遺跡、平成9年度に実施した阪南市向出遺跡の調査では縄文時代後期の墓地の確認など貴重な成果を収めた。平成10年度は出土した遺物の整理作業に移り、遺物洗浄・注記などの基礎的な作業を終え、土器の接合・復元作業をすすめつつある。

   川辺のムラと台地のムラ(仏並遺跡と小阪遺跡)

 旧石器時代から縄文時代に移行する頃に見られる有舌尖頭器から、最初の弥生土器と共存する突帯文石器まで、縄文時代の各時期の遺物がある。特に多くの遺構や遺物が良好な状態で検出された小阪遺跡と仏並遺跡を紹介する。

 小阪遺跡は、堺市の泉北ニュータウン北縁を流れる陶器川の谷の入り口にある。陶器川の流路は谷の中で何回も変化しており、縄文土器や石器が含まれている。縄文早期から晩期の遺物があるが、特に多いのは中期末から後期初頭及び後期前半である。中期末から後期初頭の河川の周辺には、土器片敷遺構、土坑、落ち込み等があり、住居域と見られるが、住居の検出には至らなかった。後期前半にも河川の周辺に土器群があり、特に北白川上層式2〜3期の遺物集中区があった。このように、小阪遺跡では、谷の入り口の河岸における人間集団の活動に一端が明らかになった。

 仏並遺跡は和泉市仏並町にあり、和泉山脈北麗の横山谷という小盆地の中の、川に臨む台地に立地している。断続的ながら早期末から晩期末まで遺物が出土した。特に縄文中期末から後期前半には集落が営まれ、3次にわたる調査により竪穴住居7棟、掘立柱建物1棟、数基の埋甕や集石遺構、多数の土坑が検出された。土坑の一部は土坑墓であった可能性がある。近畿地方でもいまだに希少な縄文時代の集落の一例として貴重な存在である。

大阪府埋蔵文化財設立当初に実施した、和泉市仏並遺跡は近畿地域では有数の縄文集落であった。多数の土器棺墓や竪穴住居、関東地方や瀬戸内海地方との関連をもつ土器のほかに、西日本では初めての土製仮面が2点発見され大きな反響を呼んだ。発掘開始から報告書の作成の原点になった調査である。6年間にわたる堺市大庭寺遺跡の調査は、初期須恵器が発見された当初から注目を集め、ついに最古の窯跡の発見に至った。灰原資料が良好に残っていたこともあり、韓国の研究者来訪も後を断たない。銅鐸を始め、数々の木製品や良好な土師器が大量に発見された堺市下田遺跡も注目を浴びている。特に赤銅色に輝く銅鐸の取り上げ作業は、保存の為時間をかけられないこともあって、厳寒の深夜にまで及んだ。

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