橿原遺跡と土偶 |
消費地としての集落と土偶――橿原遺跡
(発掘が語る日本史 近畿編縄文時代 泉 拓良)
昭和13年、紀元2600年祝典事業の一つとして奈良県畝傍山東麓にある橿原神宮外苑の整地拡張が行われた。その工事の中に橿原遺跡が発見された。以後、昭和16年まで末永雅雄氏らが発掘調査を行った。遺跡は縄文時代から中世にまで続く複合遺跡であるが、縄文時代では抗期末から晩期終末直前の滋賀式XW式までにかぎられる。橿原遺跡は、凸帯文土器でも最古の形態である一条の凸帯を口縁部にもち、底部が円底である滋賀里式W式までであり、この遺跡の北数`にある弥生時代の大集落唐古遺跡が滋賀里W式よりは新しい二条凸帯文土器から開始している点は重要な問題である。
土偶
人物や動物をかたどった土製品を土偶と呼ぶが、近畿地方で(人物)土偶の出土した遺跡は30遺跡である。時期の判断できる22いせきの内、縄文早期押型文期の神並遺跡(東大阪市東石切)を除くと、全て後・晩期の所産であり、全出土数274点に内、橿原遺跡から出土した土偶が183点と、その過半数を占めている。出土した遺跡数では後期と晩期に差はないが、後期出土例は一遺跡二例を最高にしているのに対して、晩期は橿原遺跡以外では馬場川遺跡で40点が出土し、3点以上出土遺跡も過半数を占める。
馬場川遺跡と橿原遺跡では完形の土偶は皆無であって、一部が折り取られている。その折り取られ方は、橿原遺跡例が千葉県西広遺跡や熊本県上南部遺跡の東西を代表する土偶を多出した遺跡と一致するが、馬場川遺跡例は頭部破片が皆無で他の遺跡と異なっているという。土偶は折り取られた部分同士が接合して完形になるという例もなく、恐らく折り取られた部分は別の祭場などに埋められた可能性が強い。土偶を旧石器時代のビーナス像と結びつけて狩猟動物の多産を願う祭りに用いたとする説や地母神像と考えて農耕祭祀と結びつける説などがある。近畿地方で土偶が数多く出土する橿原遺跡や馬場川遺跡では、シカやイノシシが多量に出土している。
馬場川遺跡では土抗の周りに、シカ・イノシシの下顎骨を中心とした骨が散乱した状態で土偶を交えて出土しており、動物解体場と考え、動物土偶の存在から、土偶を狩猟と結び付けている。橿原遺跡でもイノシシが約60頭、シカgは約40頭分出土したと推計しており、他の遺跡と比べて圧倒的に多いように思われる。ともかく、弥生時代には殆ど土偶は無くなる事から、縄文時代に特徴的な精神遺物である。
物資の集積地
橿原遺跡からは多量の遺物が出土したが、その中には遺跡の周辺では産しない各種の材料や食料、製品があった。特に当時の主要な道具類であった石材を必要とし、他の地域から石材として、もしくは製品として運ばれている。
鋭い刃物を要する石鏃や石錐・削器は奈良県や大阪府の境にある二上山産のサヌカイトを使用し、研磨しやすく、鋭くて厚い刃を必要とする磨製石斧には紀ノ川流域の絹雲母紅簾片岩や緑泥片岩などの結晶片岩類を用い、石刀・石剣には黒光りする木津川・瀬田川流域の粘板岩やホルンフェルスを利用している。
更に、当遺跡からは、クジラ、エイ類、タイ、フグ類、ボラ、スズキなど海産動物の骨が出土し、海岸部との食料交換も想定できる。さらに石器以外の製品も運び込まれている。遠く東北地方の福島県東北部から輸入したされる亀ケ岡土器が出土している。
西日本では、後期後葉になると、土器に縄文を施すことが無くなり、文様も直線化して衰退し始め、晩期になると深鉢は文様を失うようになる。一方、東日本、特に東北地方では繁んに文様を施す土器・亀ケ岡式土器が成立する。このような非常に丁寧に作られた亀ケ岡式土器が近畿地方一円に搬入されており、また北陸地方の土器も搬入されている。搬入品は精緻に作られたものに限られているようで、土器そのものが交易の対象であった可能性が強い。
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