縄文んと渡来人の遭遇

縄文人と渡来人の遭遇

  日本人(弥生人)の誕生 (小林 青樹 国学院大学)

 春秋時代の中国の動乱は、中原から東北部へと広がり、多数の移民や難民などが朝鮮半島北部に至った。更にそれがやがて南部に移動し、遂に北部九州に上陸した。

 紀元前五〜四世紀頃、日本ではこの渡来人の到来とともに水路などの灌漑施設をもつ「本格的な水田稲作農耕」が始まった。 弥生時代の幕開けである。

狩猟採集に加え、小規模で補助的な稲作を行ってきた縄文人たちは、少数の渡来人を受け入れ、共同で水田開発を行い、又新しいムラを作り住み始めた。そして縄文人と渡来人の様々な対立と融合を経て「弥生人」が誕生した。

 渡来人が縄文文化に持ち込んだものは、稲作技術の他に、紡織技術、ブタなどの家畜、農耕の祭り、銅や鉄といった金属器など多肢にわたる。 それらに加え、戦乱を経験してきた渡来人は、武器や、環濠集落など「戦争思想」を持ち込んだ。

  縄文人は、渡来文化として、生活を豊かにするモノ、技術、知識だけでなく、負の側面としての戦争も受け入れなければならなかった。又縄文人は、不安定な生活スタイルから脱却するための起死回生の策として、水田稲作を導入したのでは決してなかった。むしろ異文化に対する恐怖や不安は、縄文社会を揺るがすことになったはずである。  更に、 農耕文化にそぐわない伝統文化は捨て去る必要もあり、様々な葛藤を経験しながら弥生文化を構築していったのである。

 春秋戦国時代 しゅんじゅうせんごくじだい 前770〜前221年の、古代中国における周の東遷から秦による中国統一までの時代をいう。

春秋戦国時代とは、「春秋時代」と「戦国時代」の2つの時代をあわせた呼び方である。春秋時代という呼称は、当時の有力諸侯であった魯の役人が当時の国際関係についてしるし孔子が添削したとされる「春秋」という書物からとられた。そのあと、戦国の七雄とよばれる韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕の7大国が争覇戦をくりひろげた時代を戦国時代とよび、この時代の記録でもある弁士の遊説をあつめた「戦国策」から命名された。

春秋と戦国をどこでわけるかについて、現在では、大国だった晋(しん)3つの国(韓・魏・趙)に分裂した前403年までを春秋時代、以後、前221年までを戦国時代とよぶことが多い。

「中原」

黄河 こうが 中華人民共和国の北部を横断してながれる大河。中国語ではホワンホー。全長は5464kmで、中国では長江についで第2位。流域面積も約75km2と広く、長江、ヘイロンチアン(黒竜江)についで第3位。黄河はしばしば氾濫し、周辺に洪水の被害をもたらしてきた。その被害は「中国の悲嘆」とよばれ、治水政策は歴代王朝の国家統治を左右するほどだった。また、黄河下流域は「中原」とよばれ、中国古代文明の黄河文明発祥地で、殷(いん)代の遺跡( 殷墟)をはじめ多くの古代王朝の史跡がのこる。黄河の名は、水に多くの黄土をふくみ、黄土色を呈することから名づけられた。「百年河清をまつ」という言葉は、この黄土色の濁りが澄むことはないことから転じて生まれた。また、河の字は直角にまがった川の意味で、黄河の代名詞としてホー()ともよばれる。

 縄文世界の反応と変化

 縄文時代後半には、「渡来」の前兆を予感させるように、大陸に由来するも籾圧痕のある土器やコメについての情報が流入して、縄文人の間に緊張と動揺を与えた。

 紀元前1.000年頃。朝鮮半島ではすでに稲作農耕社会に突入し、遅くとも紀元前七世紀頃には大規模な畑作が、そして紀元前六世紀頃には本格的な水田稲作農耕がほぼ完成している。 従って、その情報が日本列島に流入していた可能性は十分にある。

 この反応を探るために、縄文文化の土偶や石棒といった、祭りで機能する呪術具の検討は有効である。何故ならこれらは精神文化や宗教的な観念に関るので、その消長を追うことで、文化の変革の様を明確に読み取ることができるからである。

 即ち、土偶と石棒は、まず紀元前千数百年の縄文時代の後期後半に九州と山陰・近畿で増加し、後期末には九州においてのみ増加する。熊本市上南部遺跡の100点を超える土偶はその代表例である。

 そして、紀元前1.000年頃の縄文晩期の前半に中国地方を除く西日本全体に広がる。近畿地方でも三重県天白遺跡のように、大量の土偶を保有する集落が出現した。

天白遺跡
  中村川左岸の沖積低地に立地し、縄文時代後期中葉から晩期初頭にかけての遺構・遺物が大量に確認されました。遺構のなかで注目されるものは川原石で構築された配石遺構群で西日本では最大規模です。また、他に埋設土器26基、焼土なども検出されています。遺物は一乗寺K式〜滋賀里U式に比定される後期中葉〜晩期初頭の土器が大量に出土したほか、朱などの赤色顔料が付着した土器や石器類が確認されています。また、土偶や石棒など祭祀関係の遺物の大量出土も注目されています。

 この縄文晩期前半には中部・関東においても大量に保有されていることが分かっている。

 こうした様相にについては、社会内に広がった動揺の沈静化と集団関係の緊密化を図るために、周辺集落の人びとが結束し、象徴的かつ神話的な道具である土偶と石棒の祭祀を行ったという解釈が、唱えられている(甲元 真之、小林 達雄)。

 そして、九州では稲作の到来前に呪術具はほぼ姿を消す。本州各地では、縄文晩期半ば以降も呪術具が残るが、東日本、特に関東と中部地方の高地では、大規模な配石遺構などによって知られる祭祀が晩期前半にピークを迎え、突然に終焉する。この後、再び同規模の祭祀は復活しなかった。

 大規模なムラは分散し、小規模化してしまったのである。

 一方、縄文晩期における環境変化に伴った生態的・社会的状況の変容も無視できない。

 縄文後期以降の寒冷化の影響は、人口の減少を招いた。特にそれは晩期半ばから激しく、住居規模の小型化と集落数減少の要因の一つになった可能性がある。 ただし、こうした状況にあっても、率先して低地に進出し、生業の中身を充実するように環境に適応していたことが、最近の新潟県青田遺跡の調査などから明らかになっている。

 

   縄文時代の遺跡は、普通、海岸に面した丘の上や川に面する段丘の上で見つかります。そこには、竪穴住居の跡や墓地が発掘されてきました。土器や石器も多く出土します。貝塚が見つかれば、タイやスズキなどの魚類やキジ・カモなどの鳥類、シカやイノシシ・ウサギなどの獣類の骨が含まれているので、それらが食料となったことが分かります。衣食住のうち食料と住居はある程度まで推測できるのですが、衣類についてはほとんど分かりません。繊維製品が腐蝕して残っていないからです。また、クリやトチ・クルミなども植物性の食べ物も残りにくいのでどのくらい食べていたのかよく分かりません。また、住居についても、木材が残っていないので、住居の構造が分かりません。

   ところが、川や沼・湖の傍で遺跡が発見されると、水に浸かっていたために繊維や木材が保存されている場合があります。空気にさらされないので酸化せずに残っていたのです。以前は、このような低湿地遺跡の発掘は余り行われなかったのですが、最近は各地で縄文時代の低湿地遺跡が発掘されるようになりました。

   又、西日本では、後期以降、低地への進出が著しい。縄文晩期社会は、決して行き詰まったのではなく、新たな生態系への適応化を進めていたのであり、特に西日本の場合、小規模な穀物栽培の導入を可能とするための先駆的な適応でもあった。

 西日本では縄文晩期の終わり、土器の表面を磨き炭素を吸着させて黒色化した「黒色磨研土器」の時代に、すでに低地への進出を果たしていた可能性も十分にある。

   黒色磨研土器

   黒色磨研土器は製作にあたって簡単な轆轤<ろくろ>を使用した形跡があり、器壁はよく研磨して端正な形に仕上げている。焼成にあたっては酸化炎をつけて炭素を器壁の両面に吸収させる方法がとられ、そのために黒色に焼き上る。口縁部は二重口縁をつくり一条〜二条の沈線を施す。口唇部には粘土のリボンを二〜四ヶ所貼り付け飾る。この土器は中国浙江省一帯の良諸文化や湖熟文化などにみられる硬質黒陶の影響とみられ、九州など西日本一帯の縄文晩期土器の特徴とされる。端正な形態とそれに似合った効果的文様の調和は、黒色の地肌とともに洗練された工芸の城に達したものといえる。

黒色磨研土器

    縄文時代晩期、縄文文化の最後を飾る華麗な土器が、東北地方に現れた。この時代、既に九州地方では、弥生文化の先駆けとも言える農耕が始まっており、8,000年に及ぶ縄文文化は、東北地方で花開いていた。特に、土器の表面に炭素を吸着させ、丁寧に磨きをかけた、黒色磨研土器は、その代表といえる。これらの磨研土器は、祭祀や儀礼などハレの場で使用されたものと思われる。この注口土器も、まるで漆製品のように丁寧に仕上げられいる。

注口土器縄文時代晩期

   渡来系弥生人が入植したムラと縄文系のムラの関係は、近畿の河内潟周辺でも見ることができる。大阪府長原遺跡や八尾南遺跡の場合がそれである。長原遺跡が縄文ムラ、八尾南遺跡が弥生ムラである。二つのムラの間は500m程度で非常に近接した位置関係にあり、「共生」(秋山 浩三氏)であるとした。但し、同じ近畿でもムラ同士が対立関係にあったケースも十分に想定できる。

   兵庫県神戸市の新方遺跡では、多量の石鏃を射込まれた縄文系弥生人の人骨が見つかっており、最初期の環濠集落である神戸市の大開遺跡の存在とともに絡めて、相互に緊張関係があった可能性は否定できない。 このように、福岡平野で見たような状況が、岡山平野や近畿でも起きている。

   ところで、近畿では渡来系弥生人が入植し始めると縄文晩期後半から弥生時代前期初頭に、結晶片岩製で粗製の大型石棒が突如増加し始める。

   この石棒は、徳島県徳島市の三谷遺跡で生産され各地に流通していたことが中村豊氏により明らかになっており、「三谷型石棒」と呼ばれる。このような石棒をもつ遺跡の多くは縄文系のムラであり、その多くは壊された状態で出土する。 そしてこの時期以降、石棒は消滅する。

    縄文系文化と渡来系文化が対立と融合を経て、縄文的要素を残す縄文系弥生文化が成立する過度期には、社会内部に様々な矛盾が生じたはずである。その際に集団の結び付きを強化する必要から、東日本の影響を受けて石棒を採用し、祭りを執り行ったものと考えられる。しかし、急速な変化に、縄文的スタイルから脱皮しようと決意したのか、石棒は粉々に破壊された。縄文的神話世界を捨てて次の弥生的世界へ移行するためには、神話の象徴を次々に壊す必要があったのであろうか。

   縄文人の心の葛藤をうかがい知ることのできる現象である。

    西へ展開した東の縄文人

   遠賀川様式の広がりに伴って、西から東への人とモノの動きがあったのに対して、東からの人とモノの動きも無視できないほどに活発であったことが分かってきた。

   北部九州で稲作が始まり、やがて板付に集落が成立したとき、東日本の縄文人たちは決して手をこまねていたわけではなかった。突如、彼らは西方へと展開を始めるのである。 このことを物語るように西日本で発見される縄文系土器の最初期のものは殆ど、亀ヶ岡系の土器ばかりであることから、東北と北陸の集団が中心のようである。

   東日本の縄文集団は、西方の情勢の視察と新来の文物の獲得のために視察隊を派遣したと考えたい。 更に、渡来人に対しては物質的な関心よりも、思想や人物像に関心があったと推測する。 特に西で始りつつあった戦争は、最大の関心事であったろう。

   西方に拡散した亀ヶ岡系の土器には、直接持ち込んだ搬入品と在地で変容したものの二種類が存在しており、視察に移住した者もいたと考えられる。

    再葬と大型掘立柱建物(神殿)

   東日本では「再葬墓」が盛行していた。基本的に縄文文化に系譜を辿ることができ、中部高地から東北南部にまで広がった縄文的スタイルを維持した集団の墓製である。

   再葬については、集落内・洞窟・岩陰などに埋葬された遺体を、或程度白骨化した段階で発掘し、解体・焼却ののち壺棺に収め、又一部は他の場所へと運び出し埋める。

   再葬墓は複数の集落が共同で造営したものであり、普段は離れて暮らす複数のムラ同士が、何らかの契機に共同で再葬=祖先崇拝を行うことで相互のつながりを確認する儀礼であったと考えられた。

   再葬は、晩期以降集団間の結びつきを失った中部・関東の縄文系集団にとって、祖先を祀ることで集団の結束を再びはかる重要な儀礼だったようだ。

関東地方の再葬墓は、縄文を施した土器「須和田式土器」などを使用する集団に引き継がれる。

 再葬墓の時代が続く中、弥生時代中期の半ば、紀元前二世紀後半頃に現在の神奈川県小田原市中里に新しいムラが出現した。(「中里遺跡」「日本人:其の5」)

 低地に拓かれたそのムラでは、100軒近い竪穴住居のほか、西日本の墓製である方形周溝墓が確認され、木製農具も出土するなど、集落の規模の大きさからみても本格的な水田稲作社会の姿を示している。

 この遺跡の担い手が、縄文系弥生人である。「須和田式土器」の集団であった。そして出土した土器の中でとりわけ問題となったのが、大阪の摂津市付近の瀬戸内系土器である。このムラは、在来の縄文系弥生人のみによって建設されたものではなく、数%とはいえ、摂津方面の渡来系弥生人の影響を受けていた。

 この遺跡で最も注目するのは、ムラの中心部に位置する大型掘立柱建物である。独立棟持柱を有し、長さ約10mにも及ぶこの建物は神殿を思わせる。

池上曽根遺跡

  住居の数から見て、複数の単位集団が共存していたと考えられる中里ムラの人びとは、再葬墓を捨て、それに替わる集団の結びつきの場をこの神殿的建物に求め、祭りを行ったと考えられる。 南関東の縄文系弥生集団は、精神文化の側面で積極的な変革を選択したのではないだろうか。

 ただ、この大型建物の系譜については注意が必要である。何故なら、近畿で大阪府の池上曽根遺跡のような独立棟持柱を有する超大型掘立柱建物が発達するのは、中里ムラに遅れて弥生時代中期後半であり、更に規模についても中里の例は巨大で、近畿の例と比べると上位に位置するからである。

 村上 恭通氏は独立棟持柱を有する大型掘立柱建物の起源を縄文文化に求めたが、中里ムラの大型掘立柱建物もそう考えることが可能かもしれない。近畿で大型化しつつあった段階に、祭祀のスタイルだけを持ち込み、在来の縄文系の建物を改変・大型化して神殿化したという可能性も視野に入れたい。

 いずれにしても、集落の規模も含め、近畿の先進性に匹敵する内容を急激に実現したことの意義は大きい。

 東の縄文系弥生文化の見方を、今後変えていく必要があろう。

 この中里ムラの光景は、弥生文化への移行について、恐らく指導的役割を持っていた少数の渡来系弥生人の参画さえあれば、縄文人主導でも十分に達成できるということを、むしろ東日本という縄文系の色彩の強い地域であるからこそ明確にできるのかもしれない。

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