「小牧野遺跡」

 「小牧野遺跡」                     

  概要

 小牧野遺跡は、青森県野沢字小牧野に所在し、縄文時代後期後半(約4000年前)に、大規模な土地造成と特異な配石によって作られた環状列石をシンボルとする遺跡です。

 環状列石は、墓や葬送、祭祀、儀礼に深く関わるもので、多数の石を大きく円形に並べたもので、ストーンサークルとも呼ばれ、膨大な時間と労力をかけ、その時代の先端的な土木技術を駆使して作られており、縄文人の組織力を見せ付けるモニュメントでもある。

 本遺跡の環状列石は、斜面を平坦にするよう土地造成の後、付近の川から運ばれた約2400個もの自然石によって作られ、直径35m、29m、2.5mの三重の輪から構成されている。列石は、縦横に石垣状に組まれ「小牧野式」とも呼ばれる全国でも類例の少ない特異な形態を呈している。

 これまでの調査では、三重構造の環状列石のほかに土器棺墓や土坑墓群、貯蔵穴や捨て場跡、道路跡等が見つかっている。遺跡の性格としては、この周辺に集落跡の存在が考え難くいことと環状列石内の土器棺墓や隣接する墓域の存在等から、集落から分離して形成された埋葬地であった可能性が高く、この埋葬地のシンボルとして環状列石が構成されたものと考えられる。

  小牧野遺跡とストーンサークル

 ストーンサークルが作られる前は、その場所は、緩やかな斜面であった。その斜面を削って、平らにするという大掛かりな土木工事を行なっていた。台地の下の「荒川」から、石を組んでストーンサークルを作った。石は片手で持てるくらいの小さな石から大人が10人位でやっと持ち上げる事が出来るほどの大きな石まであるが、殆どは大人独りがやっと持てるくらいの石であった。2000個ほど運ばれていた。

 ストーンサークルは三重の輪から出来ていて、外側の輪で直径35mある。石を石垣状に積み重ね、これを繰り返して作っている。これは全国でも珍しい方法で「小牧野式」と呼ばれている。

 こうした特殊な形で、又、大きな物を作るには、前もってしっかりした設計図を描く技術者や、人を働かせるための指導者がいたと思われる。

  小牧野遺跡と墓

 その性格については、人を埋葬する「墓地説」と祭りを行なう「祭祀説」とがある。小牧野遺跡はストーンサークルの周りから数多くの墓が見つかっている事や、祈りやおまじないに使われたと思われる遺物も多いことから、墓地を含めた「祭祀の場」として考えられる。

 縄文時代の平均寿命は30歳前後位と言われ、フラスコ状や楕円形の墓穴が

100基以上見つかっている。

 ストーンサークルの内側と外側の輪の間からは、「甕棺土器」が3個埋められた状態で見つかった。

 甕棺土器は、一度墓に埋葬した遺体を、数年後に肉が朽ちた後に取り出し、その取り出した遺骨を再び埋葬する為の骨壺であると考えられている。こうした埋葬行為を「再葬」と呼んでいる。

 小牧野遺跡では、土葬用の墓が50基以上、それに対し、再葬用の墓が3基しか見つかっていないことから、この遺跡に関わる人々の中でも特別な人に再生の願いを込め祀っていたと思われる。恐らく、そこに葬られた人はストーンサークルを作る際の指導者や、その集団の権力者が再葬されていたと考えられる。

  小牧野遺跡と道

 平成10年の調査で、野沢集落から環状列石までをつなぐ現在の道路の沿線に、縄文時代、平安時代、そして近代の道路跡が見つかった。

 恐らく、近代のものは、村と馬の放牧場を、平安時代のものは村と村をつなぐ道路として使われていたことが考えられる。縄文時代のものについては、環状列石を作る際に石を運んだ道路、又その後、環状列石と集落の往き来に使われた道路としての可能性が考えられる。

 尚、小牧野遺跡周辺は、江戸時代から馬の放牧場として知られ、又、平成10年度の調査で平安時代の集落跡も確認した。

 縄文時代の道路は、青森県内では三内丸山遺跡や天間林二ツ森貝塚からそれと考えられるものが見つかっており、いずれも土木工事が行なわれている。

 大規模な土木工事が行なわれた古代の道路で有名なものに、ローマの道路が知られ、その一番古いものに「アッピア街道」がある。アッピア街道というのはローマから南のカプアの方に走っていく道路で、紀元前312年、今から2300年程前に作られたものである。「世界の道はローマに通ずる」という言葉は現在でも残っているように、ローマの道路は現代と同じように、国道・地方道・里道の三つに分けられていた。その一部が現在でもローマ郊外で昔の舗装のままで現存し、自動車交通に耐えている。

 今回検出した小牧野遺跡の道路も、縄文時代から平安時代、そして近現代と断続的だが、同じ場所で使われている。ローマの道とは、技術的にも距離的にも遠く及ばないが、古代回帰を思わせる意味では、どこか似てはいないか。

  小牧野遺跡と縄文の泉

 “泉”とは、湧き水のことであるが、地表に湧き出る清らかな水はしばしば聖なるものと受けたられ、畏敬の対象ともなっている。

 自然に敏感であった縄文時代の人々も、このような“泉”を見出し、飲料

ばかりではなくドングリなどの植物質食料の加工にも用いてきた。

 実は、この小牧野遺跡でも環状列石の東側の急斜面から縄文時代の“泉”が発見されている。

 “泉”自体は、“湧水遺構”と呼ばれ、大規模な土木工事によって縄文人に作られた、幅約4m、深さ約1.5m(推定)のプール状の施設であった事が解った。

 湧き水遺構の東側には、隣接して幅68m、高さ約4mにもなる盛り土も確認されている。この盛り土は、湧き水遺構内の土と同質のものが含まれていることから、主に湧き水遺構を掘削する際に排出された土によって形成されたものと考えられている。

 湧き水遺構の南側には、遺構に直結する水路状の施設も確認されており、その壁面には、満遍なく砂が、底面には粘土が貼り付けられていた。

 又、“泉”は、「他界との接点」「生命や魂の原郷」「霊力の源」とみる思考が背景にあったり、中には産水や死水を取る目的だけに使われるものもある。

 小牧野遺跡の“泉”の性格は、縄文人が行なった土木工事の規模や環状列石との関連性から、飲料水やドングリなどの植物食料の加工に使われていただけではなく、以上のような思考や目的とも関連した祭祀性が極めて強い施設であったことが考えられる。

  その他に小牧野遺跡から発掘されたもの

 ストーンサークルの他には、それを囲むように幾つかの配石遺構が見つかり、又、フラスコ状の土坑墓や数多くの土坑や柱穴、埋設土器遺構、遺物の捨て場などが発見されている。

 小牧野遺跡で出土している遺物は、環状列石の構築時期である十腰内T式と呼ばれる縄文時代後期前半の土器とそれに伴う石器等が多く、祭りのときに使われたと思われる様々な土製品や石製品も見つかっている。