「伊勢堂岱遺」(鷹巣町)

「伊勢堂岱遺跡」(鷹巣町)        

 縄文後期(約4000年前)の遺跡では、大型の環状列石が4ケ所に渡って発掘されている。

 4つの環状列石

 

 たくさんの石を円形に並べられて造られた、縄文人の祭り・祈りの施設を環状列石と呼びます。遺跡堂岱遺跡では台地の北西端に4つの環状列石が密集して発見されました。4つの環状列石がある遺構は、全国でも例はなく、伊勢堂岱遺跡独自の特徴です。

 環状列石は発見された順にA〜Dの名称がつけられています。最も北側に列石A、その南西に列石B(弧状列石)、列石Aの南側に列石C、その南西に列石Dが位置しています。

 列石Cは県による平成8年度の調査で、ハンドボーリング探査(地質調査に金属棒を地面に刺し、石の有無を確認)によって存在が確認されました。平成9年からは町によって発掘調査が行なわれ、2分の1が明らかになりました。

 列石Dは平成12年にハンドボーリング探査によって新に確認されました。一部の試掘調査を行い、少なくとも二重の円環で構成されていることがわかりました。外側の環は長さ36mと推定されています。

 4つの環状列石は未調査の部分を今も残しています。各列石の造られた時期差、各列石の性格の違いなど、今後の調査で多くのことが明らかになってくると思います。

 広大な祭祀の場

 平成9年から始まった町の学術調査は、遺跡の範囲確認と内容確認を目的に

試掘溝(トレンチ)による台地全体の試掘調査、環状列石の発掘調査を行ないました。

 

 これまでの調査の結果、遺跡は標高40m前後の台地全体(約20ヘクタール)に広がることが解りました。更に、確認された遺構・遺物の分布状況から、遺跡が土地利用の面で幾つかの区域に分かれることが考えられます。

 まず、台地の北半分は石を搬入して築かれた祭祀の場です(区域@)。当区域は、環状列石が築かれた場(@−1)、小規模な配石遺構が築かれた区域(中央)、石が散在する区域(東)と3つの祭祀区域に細分できます。

 台地の南半分は東西に分かれます。東側が石を用いない祭祀区域(区域A)、西側が遺構・遺物の少ない区域(区域B)です。

 これらの区域は密接な関係を持って遺跡全体を構成していると思われます。

 あらゆる儀式の場

 伊勢堂岱遺跡で検出した遺構・出土した遺物からは、伊勢堂岱で行なわれた儀式の内容が想像できます。検出した土坑墓・埋設土器等の墓からは、儀式や、盆のような祖先を祭る儀式が行なわれていたことが考えられます。

 又、狩や漁に使われたおびただしい量の石器や動物形の土器品等からは自然の恵みを感謝・祈願する儀式が行なわれたことが考えられます。更に、幼児の足を型押しした土製品も出土しており、ヒトの成長に関する通過儀礼も行なわ

れていたようです。

 それらの事例から、伊勢堂岱遺跡は縄文人の生死を含めた、生活の節目の儀式を行なわれた場所であったと考えられます。

 大規模な土木工事

 伊勢堂岱遺跡から検出された遺構から、縄文人による大規模な土木工事の様子を知る事が出来ます。

 環状列石Cは自然地形を掘り削って、掘り出した土を戻し踏み固め、整地されています。また、整地した土地を囲むように、土手状に盛り土を施し、その縁に立てかけるように石を並べています。

 列A・Bについても環の内側が削られ、平らに整地されている事がわかっています。

 更に、列石を造る為に大量の石が河原から運ばれています。列石に使用されている石は小猿部川、阿仁川、米代川の河原から運ばれていることが推定されています。現在、環状列石の石と同じサイズのものは、遺構から5km以上離れた河原で採取できます。

 又、平成11年度に台地東側で検出された溝は、幅11.5m、深さ約1m、全長100mを測る大規模な遺構です。

 調査の結果、掘り出した土を溝の外側に土手状に盛り土していた事が確認されています。縄文人達は、発達した道具がなかったにも関わらず、我々の想像を越えるような事を行なっていたのです。

 環状列石からみえる当時の社会

 伊勢堂岱遺跡は環状列石を中心とした縄文時代後期(約4000年前)の祭祀の場の典型的な例と考えられます。

 これまでの調査例から、環状列石は縄文時代後期の北東北〜北海道を中心に発展したことがわかります。環状列石が造られるようになった理由は当時の社会の変化にあったと考えられます。

 伊勢堂岱以前の時期、縄文時代中期(約5000年前)には、青森県三内丸山遺跡に代表されるような大規模なムラが多く営まれていました。

 しかし、それらの大集落は中期の末に姿を消し、その後は小規模な集落が増えていきます。これは大集落が分散して、小集落化したことを示すと考えられ、その原因は気候の寒冷化による食料の減少、ムラが大きくなりすぎたことによる環境衛生・社会面での破錠、であると推定されてます。

 そして、この頃から環状列石等の大規模な記念物が出現するのです。分散した集団は祭りの時に一堂に集まり、一族の絆を確かめ合っていたようです。環状列石は祭りの舞台であり、大規模な土木工事を行なってまで築かれた、彼等の絆・心を形として示した記念物なのです。

 このように、伊勢堂岱遺跡は「縄文人の心や形が見える遺跡」と考えられます。