共同墓地であるか、或いは“まつり”
「大湯環状列石」
共同墓地であるか、或いは“まつり”
集団墓としてかなり明瞭な性格を示す環状土離に対し、大湯環状列石はその性格をめぐって論争を引き起こしたことはよく知られているところである。
この配石遺構をめぐる論議の一つは、その機能が共同墓地であるか、或いは“まつり”にかかわる施設であるかという点に集約される。
大湯環状列石は秋田県鹿角市、鹿角盆地の東北端、米代川の支流である大湯川の左岸の河岸段丘上にあって、付近には大湯温泉がある。大湯環状列石は万座遺跡と野中堂遺跡からなっている。県道を挟んで西側に万座遺跡、東側に野中堂遺跡と更に未調査の配石遺構がある。
昭和6年(1931)の発見以来、縄文土器と共に石材による遺構も発見され、人々の注目するところとなった。文化財保護委員会(文化庁の前身)は昭和26〜27年、大湯環状列石の国営調査を実施する。
大湯の環状列石は内帯と外帯からなるが、万座環状列石は外帯外周線の径が約46mで、外帯の幅が約8mである。それに対して野中堂は、外帯の径は40m、内帯の径が12mを数える。
環状列石はいわば配石遺構の集合体で、円形・方形・長方形をなす組石遺構が数10基集合したもので、野中堂の場合は外側に32基、内側に11基、外と内
との間に1基の計44基、又万座では外側に43基、内側に4基、外と内との間に1基の48基が確認されている。
配石は中央に立石のあるもの、覆石を主体とするもの、四隅に立石を持つ中間的なものなど5種類型に分けられ、これらが万座・野中堂に共通する単位になっている。そして、このような単位が集まって2重のサークルを形づくっている。
両環状列石はともに、北西部の外側と内側の中間部に、1本の柱状立石を中心に石を放射状に配した、俗に日時計と称される特殊な組石遺構が1個発見されている。組石に使用された石の多くは長柱状のもので、大部分が石英閃緑岩である。いずれも水磨され、遺構から4`ほど離れた大湯川と安久谷川の合流点から安久谷川の上流1〜2`にわたる河床から採集されたものと考えられている。
立石に使用された大きなものには、2〜3人でも容易に運搬し得ないものも見られる。
この調査では約100基の組石の中から任意の14基についてその下部が調査され、その多くから幅1×0.7m、深さ約0.7mほどの比較的小さな小判型をした土坑が検出されたが、それらの土坑からは、人骨や埋葬用の副葬品は発見されなかった。周辺からの出土した土器から、縄文時代後期につくられた可能性が高くなったが、墓である確証は得られず、それが積極的に墓地説を推進する上でブレーキになったのである。
この調査では、遺構の性格は整理されず、墓地説と祭祀説という二つの異なる見解が両論併記のまま世に問われたのである。
斎藤氏が組石の下底に坑が普通に認められることから、これらを墓坑と見なし、又組石を墓標的なものとし、それが環状に構成されたもので墓の集合体であるとしたのに対し、大場氏は巨石信仰とか山岳信仰を引き合いに出し、その意図するものは埋葬とか祭祀とか宗教的な行為に関係する遺構であるとした。
万座環状列石では、土坑間の切りあい(重複)が存在するが、その頻度は高く、埋葬が任意の場所でなく、“埋葬位置”が決まっていた可能性がかなり高い。
そして、こうした墓域の分割は、環状列石が分割された小区域の複合体として成立している事を示している。
一つの墓域で同じ原則、規則のものに埋葬が引き続いて行なわれたと考えられるが、環状列石も集落と同様に、計画的に配列が行なわれたものと想定した坪井氏は、二重構成について、内側は世帯共同のなかで特定の世帯・個人が
埋葬されたとし、埋葬区の分割を指摘した。
こうした視点から、やがて埋葬区の分割を前提に論が進む。
鹿角市教育委員会により、昭和59年(1984)から進められている周辺地域の調査では、配石の下からは多くの場合、楕円形の土坑が検出されえているが、土坑は埋墓可能な規模をもち、土坑内より副葬品と思われる漆塗りの木製品が出土し、墓であることを示す資料も認められている。又、別の環状列石が見つかったおり、これらの列石の外周に居住区域が巡っている可能性も考えられるようになってきている。
ヒトの脂肪酸
ここ数年、間接的ながら墓であることを証明する方法が脚光を集めている。日本の土壌は酸性を帯びる地域が多く、埋葬した遺体が残る事は珍しい。しかし、人間は多量の脂肪酸を体内に蓄えていることから、土坑の中に残存する脂肪酸を調べると、死者が葬られているのかどうかが解るようになった。
昭和59年(1984)に調査された3基の土坑から採集した土坑中の残存脂肪酸分析により、26試料中22試料から、高等動物に特徴的な脂肪酸とコレストロールを検出し、組石の下に死者が葬られた可能性が高くなった。また、昭和60年(1985)の調査では、配石の下部にある土坑から甕棺墓が検出されるなど、その性格に関する長い論争に決着がつけられようとしている。
墓制を通じ、縄文社会の集団のあり方や社会構造に迫ろうとしていた林氏や春成氏などの研究によって、墓域内における埋葬のグループ分けが成されていた事が明らかになりつつある。そして、それは住居区域との対応関係にあるらしいことも解ってきた。
大規模調査の増加に伴い、縄文のムラの景観がおぼろげながら見え初めているが、縄文時代前期前葉に遡る阿久遺跡(長野県)でも、墓の区域・祭場・居住区域などの共同認識が明瞭に現れているといわれる。
集落の空間規制は、数世代にわたって使用されていると、おのずと集落の分割が成立するものであろうとされる。西田遺跡(岩手県)などに見るように、東日本の縄文時代の集落の基本構造は、中心に円形広場を配し、その外周縁に居住区域を、さらにその周りに廃棄域を巡らすものである。
死者は集落中央の「円形広場」に葬られているのである。円形広場内に共同の墓地を設定する事は、「死と生の間に隔たりが今日よりは遥かに少なく、死者と生者の間に緊密な関係が息づいていることを示しているともいえよう。
おわりに
墓は本来、埋葬という必要最低限の要求を満たす簡単な空間があればよいものであるが、今日我々の目に触れる大湯環状列石にしても、キウス環状土離にしても、いかにも異様である。
このような墓は、単に一個人の死に対する哀悼と別離を表す埋葬と言う行為を超えて、その時の記憶を固定化しょうとする意味をもっていると言われる。又、配石などの“目印”によって、はっきり墓であることがわかるように作られている点に留意すれば、恒久的な場所となっているかも知れない。
環状列石・土離が共に、世帯による埋葬場所の規制強化の結束と考えられるが、単純に埋葬施設とするのが疑わしい立石をもつ配石は、墓域を区画するための目印であったと推定される。環状列石ないし、環状土離にしろ、その主要な役割は墓であったことは、もはや疑問を挟む余地はない。
これらを舞台に、どのような祭祀や儀式が行なわれたかは具体的に明らかに出来ないが、埋葬と祭祀は相関連し、抜きがたい役割をもっていたと考えられる。このようにみていこと、大湯環状列石やキウス環状土離は、かつてあまりかえりみられなかった死や悲しみといった観念の世界を、今後考古学資料から迫っていける可能性を示した、特筆すべき遺跡であることが理解される。
図説検証 「原像日本」「遺跡の浮かぶ古代風景」 大谷 敏三