縄文の巨大施設 

  縄文の巨大施設                  

 脇神伊勢堂岱遺跡と小牧野遺跡・大湯遺跡

 巨大遺構には様々な種類があり、@土堤(盛土)・堀(区画施設)A大型竪穴(大型住居)・掘立柱建物(集会所)、B環状列石(墓地・祭場)などに分ける事ができる。

 脇神伊勢堂岱遺跡は、秋田県の北部、鷹巣町にある。この遺跡の特徴として、@大規模な土木工事を伴っている。A性質の違う施設の組み合わせである。

の2点を指摘できる。ここで見つかっている土器は、今から3500年前の縄文後期初めのものばかりである。同じ特徴を持つ土器が正確にはわからないが、恐らく100年前後であろう。従って、脇神伊勢堂岱遺跡で発見された様々な施設が造られ、そして放棄されたのは、100年以内のことといえる。 

 縄文時代の人達が大規模な土木工事を実施しているという証拠は、ここ数年の間にずいぶん集まっている。脇神伊勢堂岱遺跡も幾つかの証拠が上がっている。

この図の環状列石は、丈の低い石垣のように見える。細部を観察すると、縦・横の河原石の配置が繰り返されていることがわかる。細長い河原石(立石)をある間隔をおいて縦に埋め込み、縦石の間に平らな河原石を3〜4枚重ねる

ようにしている。このとき、立石の上にも丸みのある河原石を重ねるような手順を繰り返しているのである。

 このような立石・横石を互い違いに配置した石垣のような環状列石の例は、青森空港の側にある小牧野遺跡でも見られる。小牧野遺跡の石組では使われている河原石が大ぶりなので立石の部分に石の重なりはみられないが、全体のパターンはよく似ている。これらは縄文時代後期初めのものである。

 脇神伊勢堂岱遺跡や小牧野遺跡には、石垣のような石組が崩れている部分があり、その傍には中央ブロックで見つかっているような石組がある。 

 

    

小牧野遺跡では、この石組の下に大型の土器を利用した骨壷が埋めてあった。一端出来あがった石組の一部を崩して、石材を墓標に転用しているわけである。脇坂伊勢堂岱遺跡でも、やはり出来上がっていた石組の石材を転用して墓標に利用しているのである。

 脇神伊勢堂岱遺跡の環状列石の南側には、柱穴が密集している。

同じ場所に何回も繰り返して建物を建てていたことが解る。

 ところで、鹿角市大湯遺跡の環状列石には、野中堂・万座の2つの遺構群があり、両方とも内外で2重に石組がめぐらされている(次ページ上)。万座遺構群では、この石組のまとまりの外側を掘立柱の建物群が取り巻いている。脇神伊勢堂岱南側の環状列石は、万座遺構群のものと同じ構造になっているのである。尚、万座遺構群の環状列石と建物群の図面を脇神伊勢堂岱の図面と同じ縮尺にして重ね合わせると、ほぼ同じ規模であることがわかる(次ページ下)。小牧野遺跡の環状列石の周りにも掘立柱の建物があったことが解っている。脇神伊勢堂岱西ブロックには、葬儀やその前後に行なわれるマツリのときに利用する施設がまとまって配置されているのである。

 脇神伊勢堂岱遺跡は、このように3つのブロックにわかれる。これらのブロックにある遺構はそれぞれ種類が異なっており、その利用目的が違っていたに

違いない。ところが、普通の住居址が見出されていない。つまり、この遺構は、日常生活を送る集落ではなく、葬儀やマツリのような日常的ではない行事を行なうときに利用する場所であったと言う事ができる。

 脇神伊勢堂岱遺跡についてのこれまでの説明から、縄文の巨大施設の特徴が浮かび上がる。一つは、大規模な土木工事が伴われているということ。もう一つは、日常生活の中では必ずしも必要でない施設も含まれているということである。更に、大湯遺跡や脇神伊勢堂岱南側の環状列石は、特定の個人やグループだけが利用するものではなく、共同で利用する性質のものであったと言う事も付け加えておく必要がある。日常生活には必要でない共同で利用する巨大な施設を建設する、そこに狩猟採集生活を送っていた縄文人の社会の特質を読み取る手がかりがある。                   

 巨大施設は、多数の人たちの共同作業の産物である。しかし、大勢の人数が集まっただけでは、作業は混乱するだけで施設は出来上がらない。作業の計画を立て、工程も管理する人物、リーダーが必要である。リーダーの統率のもとに組織された共同作業によって、工程を管理する人物、リーダーが必要である。リーダーの統率の下に組織された共同作業によって巨大な施設が出来上がるのである。

 ところで、巨大施設を建設している期間、作業に参加している人たちはその作業に専念するわけであるから、狩猟・漁猟・採集など日常生活の中で行なっている食料を手に入れるための活動は停止する。その期間、作業に参加するヒトたちの食料をあらかじめ確保しておく必要がある。巨大施設の建設には、食料の備蓄・貯蔵も必要なのである。

 食料の備蓄・貯蔵は、どのようにして実現するのだろうか。作業に参加する人たちがそれぞれ準備したものを持ち寄っているのだろうか。しかし、日常生活を送るのにいつも必要なわけでもない施設を建設するために共同作業をするわけであるから、共同作業が日常生活の中で必要な食糧の調達、加工、貯蔵には振り向けられないというのでは筋が通らない。食料の備蓄・貯蔵もやはりリーダーの統率する共同作業の産物であったと考えるべきであろう。

 巨大施設が成り立つ背後には、共同作業を統率するリーダーの存在、リーダーの統率の下に行なわれる食料資源の獲得・加工・貯蔵、そして貯蔵された食料を利用して大勢の人たちを動員して行なわれる土木作業、こういった条件を読み取ることができるのである。共同作業によって貯蔵された食料が、同じく共同作業によって巨大施設を造り上げるときに消費されるのである。巨大施設は、日常生活の中では役にたつ訳ではないため、巨大建設の建設は無駄使いのように見える。

 しかし、脇神伊勢堂岱や大湯遺跡などのように、巨大施設の中には、葬儀やマツリのときにだけ利用するものである。共同で造り上げた施設で儀式やマツリを行い、それに参加する。このような過程を通して、互いの結びつきを確かめあるのではないだろうか。巨大施設は、それを建設し、利用される住民の精神的な結びつきをあらためて確認し、日常生活の中で必要となる共同作業の基礎を固める為役割を果たしていたのである。

 従って、このような巨大施設が何時頃現れるのか、どの地域に集中するのか、そのあたりが明らかになれば、縄文文化の変遷や地域による違いを捉えることができるはずである。巨大施設が出現する時期と、それ以前の時期、巨大施設が目立つ地域とそうでない地域、そこにはリーダーの性格、食料の獲得や加工

の仕方、共同作業の規模などの点で違いを読み取る事ができるはずである。

 脇神伊勢堂岱遺跡の環状列石の石組の形式は、渡島半島の石倉貝塚、陸奥湾沿岸の小牧野遺跡などと共通している。

 この環状列石の輪郭が、関東地方の八の字形出入り口を伴う住居を写し変えたものとすれば、交流の範囲は関東地方にまで及んでいたことになる。縄文時代の地域社会の間には、このように広い範囲にわたる交流が行なわれていたのである。

 その反面、小牧野遺跡や石倉貝塚の環状列石には張り出しが伴っていない。石組の形式は共通しているが、環状列石の輪郭には選択が働いているわけである。関東地方の住居の輪郭が、脇神伊勢堂岱遺跡に転写されていることも見逃せない事実である。ほかの地域から持ち込まれた外来の要素が、機能・用途の転換を起こしているわけで、西方前遺跡の配石や八天遺跡の大型建物も同じ例である。

 縄文時代の地域社会の間には活発な交流があり、様々な文化要素も伝わっているわけであるが、必ずしも丸ごとに模倣されるわけではなく、そこには選択が働いていたことがわかる。そして、外来の要素を受け入れた場合でも、意味の読み替えが行なわれ、その結果、施設の機能・用途の切り替えが起こっている。ここに、縄文社会のもう一つの側面、独立した地域社会の姿を読み取れることができるのではないだろうか。

縄文社会の考古学(林 謙作著)